11. 「文集作品(写真)」By Mr.Nakagawaji9. 「音楽との関わり」By Mr.Takeda

February 22, 2014

10. 「戎 舁」ebisukaki By Tsubota




Romigo
Web Cultures
Commemorating
The 70Years Old
By Tsubota.
Akiyama Arakawa Inomata Kawakami Mrs.Kawakami Kawasaki Shimahara Takatani Takeda Tsubota Nakagawaji Mrs.nakagawaji Nishino Habu Miyashita Yoshizumi






           「戎 舁」 
       ebisukaki
       
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 プロローグ



今日は2013年の正月2日、石油ストーブを強にした午後、汗ばむムッとした台所で、家内の作った蓮根と蒟蒻の煮物をかじりながら、酒の入ったボーッとした頭で何げなくテレビを見ていると、戎座人形芝居館の「ゑびすかき」とかいう聞きなれない名前の、妙な連中のことを紹介していた。

 今は廃れてしまっているこの「ゑびすかき」を現代に復興したのだという。連中は、といっても男女の二人組みだったが、「西宮恵比寿神社」に所属しており、神社のイベントがある度に動員されて、盛んだった当時のままに「えびすかき」の演舞実演を再現しているのだそうだ。

「ロミーゴ70歳・記念文集」のテーマに何を書こうかと思案していた折から、これは面白いかも知れないぞと、早速Webで調べることにした。すると次のようなことが色々と分かった。

戎は「ゑびす」の当て字で、他にも恵比寿、恵比須、夷、蛭子とも当てる。「ゑびす」は、狩衣、指貫に、風折烏帽子をつけて、右手に釣竿を持ち左手に鯛を抱えた姿をしており、「大国主命」の別名である「蛭子の命」を信仰する日本古来の「土着神」として信仰されていたようだ。

 奈良時代後期からは、縁起のよい富貴の象徴として民衆に広く知られるようになってきており、また海上や漁業の神、そして商売や田の神としても、認知されていたという。

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余談だが、大阪弁では「えべっさん」ともいい、関西人なら誰でも知っている今宮神社と西宮神社の「十日恵比寿」は、現在でも大変な集客力があり、また全国的にも有名だ。

 ところで、当て字一字で「戎」と書いた場合は、戎の字が中国の周王朝を苦しめた、北西方に住む異民族・西戎(せいじゅう)のことを現わすと、漢字字典には書いてあることから、「当て字としては適当ではないのだろうなあ?」と私は思ったが、「戎舁」が普通名詞化していることから、タイトルには使うが、本文中では、「ゑびす」もしくは「恵比寿」と表記することにした。

更に、室町時代に入ってからは、この日本の「恵比寿神」に、印度のヒンドゥー教に由来する「大黒天」、「毘沙門天」、「弁財天」、また中国仏教から輸入されたとされている、「福禄寿」、「寿老人」、「布袋尊」を加えたこの七神を「七福神」と称していた。

 日本、印度、中国の神々が一緒になって宝船に乗っている姿から、この「七福神」が、民衆の間では、幸運と福運、特に金運をさずけてくれる七神として信仰を集める対象となっていたのである。

中でも、恵比寿と大黒天、いわゆる「ゑびす、だいこく」は、富貴の代表格として民衆に崇められる存在になっていたとされている。

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一方、舁は「かき」と読み、紐で吊るした荷物を肩や首にかけて運ぶ様子を表しているという。

また、「ゑびすかき」は、その他「ゑびすまい」、「ゑびす箱廻し」、「人形廻し」、「木偶箱廻し」、「傀儡廻し」等と、地域によっては色んな呼び名があったようで、室町時代後期から安土桃山時代にかけて盛んになったが、江戸時代に完成され、最も盛んに行なわれていたと記録されている。

 では、そもそも「戎舁」とは、何なのか。 それは、傀儡子の男が、恵比寿人形と狩衣の着物やお面、張りぼての大鯛や小鯛、また釣竿や船そして海を現わす幕、魚や海老等の模型が入った「茶道具入れの程の箱」を横向きにして首から吊るし、ペアーの女が奏でる鈴や鉦、太鼓や鼓の調べと共に、女の踊りと口上に合わせて、この箱の上で、操り人形の「恵比寿神」が船に乗って海老で大鯛を釣り上げる様子を人形芝居にして舞わせることをいう。

加えて、この人形芝居の「ゑびすかき」を各家々に門付けして廻わり、神社のお札や開運の品々を売り歩いたことを言うとされている。

 操り人形のこの芝居は、まさに立体紙芝居といえる。当時としては、今で言うところの、いわば3Dカラーテレビの如き迫力があり、多くの民衆の耳目を集めたに違いない。

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また、淡路の「ゑびすまい」の当時から、この人形遣いの技術と操り人形の動く仕組みも大変に進化発展して、「ゑびすかき」とは異なる別の道へと分化した、とも記述されている。

即ち、阿波の傀儡人形から義太夫節と結びついた人形浄瑠璃に、更には現代の文楽へと完成されていったようである。

この「ゑびすかき」の最盛期は、江戸時代であったようだが、その後、西宮恵比寿神社が、「蛭子の大神」、「天照大御神・大国主大神」、そして「須佐之男大神」の三神を奉斎していることから、西宮神社が、「ゑびす」の総本家として君臨し、西宮「ゑびすかき」は庶民の関心を大いに集め、明治の時代まで綿々と続いてきたのである。

 そこで、

「何事も取材が先だろうなあ。これは一度、西宮恵比寿神社に行って現物を見るべしだなあ。10日は混んでいるだろうから、3日だったら空いているかもしれないぞ。今年の初詣先としても、丁度良いしなあ」

と私は考え、取材日程をその日に決めた。

そして、翌日の霜柱の立つ朝、JRに乗る。電車に乗るのは昨年11月末の、奈良「ロミーゴの会」以来ではあったが、今日も電車の切符を買うのに、緊張して指先が震える自分に嫌気がする。

 しかも、電車が来るまでに、まだ30分以上も時間があるではないか。時計を見ずに来たから、早く駅に来すぎたのだ。 老化の進行が、今までよりも更に一段と進んでいるようにも思われる。

やっと来た電車の、尿が近くなっているので心配だから、念のためにと2号車に乗る。 「老化は、いやだ、いやだ。そろそろエンディングノートも書く時期かもしれないな。

来年には70歳になることだし」等と思っている内に、私は、とうとう寝こんでしまった。 





1. 「ゑびすかき」キャラバン



淡路要は、丁度明治元年には、この「ゑびすかき」を「西宮恵比寿神社」を根城として生業にしていた。

元来淡路島出身である要の一家は、代々傀儡子として傀儡人形を巧みに操り、特に人情ものでは他の追随を許さない家伝の技芸を持っていたという。

しかし兼業漁師の父親が不慮の事故で亡くなってからというものは、傀儡子の仕事も極端に少なくなりとうとう食いつぶしてしまい、今から3年前に、要は19歳にして、遠縁の叔父を頼り海峡を超えて明石へと渡った。

 漁師をしていた明石の叔父も病気がちで経済的には大変に困窮しており、要は居づらくなり、やむなく明石から尼崎そして西宮へと落ちていく。 人伝てに西宮には、傀儡子たちが厚く信仰していた「百太夫」という道祖神の神社があり、傀儡子仲間の多くが集まっていると聞いていたからだ。

その「百太夫」は、西宮恵比寿神社の末寺にも当たることから、総本家「西宮恵比寿神社」の下級使用人としての下働きや雑用の仕事も多くあり、好都合だったという。

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22歳のとき、要は、傀儡子としての腕を見込まれて、親方から西宮「ゑびすかき」の傀儡子仲間にと引き抜かれる。親方は、要とは同郷の、淡路島は仮屋出身で、名を正井与兵衛といった。

当時の「ゑびすかき」は、仲間二人でチームを組み、親方から貸してもらった「ゑびす舞」の道具一式を肩に担ぎ、親方が神社から仕入れた御札やお守りを預かり、また高価なものでは、8cm程の高さがある、銅製金メッキの恵比寿像と大黒像、等々の開運グッズを携えて、 「恵比寿神」の人形芝居をしながら、家を一軒一軒と門付け開運祈願しつつ、西は播磨から近畿、東の遠くは三河から駿河方面までキャラバンして回り、正真正銘「西宮恵比寿神社」製の開運グッズを売り歩いていたのである。

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 このキャラバン隊を、親方は38組も持っていたという。こうして要は、不幸中の幸いにも、彼の一番得意な仕事にありついた。

しかし、要は傀儡子の仕事は上手だが、プライドが高く口下手で、開運グッズを売るのが下手だった。

そこで、愛想がよく人あしらいも上手い、何事にも動じない、鈴や鉦、太鼓や鼓の操作や口上も特上な、美人の女とチームを組まされていた。

親方が要の人となりを見抜き、親方の玉緒という次女を相方としてあてがって呉れていたのである。 よく通る、堂々たる大きなハリのある声で、踊りながらに演じる、玉緒の「ゑびすまわし」の口上はこうだ。

 まずはめでたい、まずまずめでたや もひとつめでたい 西宮からゑびすさんが 生まれ誕生はいつぞと問うなら

まずは生まれは福徳元年正月三日 虎がいってんまた卯の刻に なるよならずよ 信濃の国の竹井が森で 金の木陰で やーすこんがらしょと おいべっさんがご誕生なされた

 <キンカラコンコン、トントントコトン>鈴と鉦や鼓のリズミカルな音

なされていうた 昔馴染みか お松さんがお酌 あっ布袋さんがうたいで ひきうけどぶどぶ さしうけガブガブ こんが重なる 

海がきらめきや おなかうてしょで 足下ひょろひょろ おいべっさんが たらふく酔うてきた 酔うた 酔うた 酔うてきた

<コンカラキンキン トントントコトン>鈴と鉦や鼓のリズミカルな音

よんべ生まれたエビの子を さしてぴらり投げ込みゃ 何がまた食いついた 何がまたひっぱった 

大鯛 小鯛 これから先ざきゃ 稲作良ければ 麦作良うて商売繁盛 福が満々この家のうちへ 治まる御代ぞ おいべっさん よっ目出度いよ

<キンカラコンコン、トントントコトン>鈴と鉦や鼓のリズミカルな音

おめでとうございます

(東京外国語大学論文集第82号 友常勉氏の「門付け芸の精神史―阿波の木偶箱廻しと、出雲の大黒人の詞章・楽曲から」転載しました。

(因みに、これは実証に基づいてき再現された口上ですが、音については筆者が加えました。

 また、通常は「三番叟まわし」の口上の次に、この「夷まわし」の口上を謡うとなっていますが、「三番叟まわし」が長いので割愛しました)


そして、彼等は、茨木から高槻、また伏見から山科、さらには草津から野洲方面へと「ゑびすかき」行脚を担当していた。

丁度、要が25歳で玉緒が22歳の時のことで、二人でチームを組んでから、もうかれこれ3年にもなっていた。 




2.野洲の白井家



「玉緒はん、今日の宿は、野洲の「妓王寺」という尼寺に決めたぜ」

「要さんに、お任せしますわ。はい」

彼等は、訪問した地域の寺を主に宿泊場所として活用していた。今のようにビジネスホテルがある訳もなく、だから寺が安くて、かつ一番安全だったからだ。

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 「この寺はなあ、平清盛の寵愛を受けていた野洲出身の妓王という白拍子が、清盛に頼んで野洲川から12キロにも及ぶ灌漑用水路をつくらせたそうやで。その人工河川が、ほらそこに見えている西日を反射して光っている、その川がまさしく祇王井川らしいよ」

「その水路のおかげで、この辺りは近江でも有数の米どころとなったといわれているそうや。せやから地元の人びとが妓王の徳をしのんで建立したのが、この『妓王寺』なんだってよ」

「なんで、そんなことまで知っているの」

「さっき門付けして、招福の舞をした家のなあ、白井家のお婆ばさんから、詳しく聞いたんや。そして、もう今日の宿泊の連絡も入れてもらっていますのや」

「ああ、私が大旦那さんに恵比寿と大黒の金色銅像を買ってもらう商談をしていた間の話ですね。よかったわね、要さん、ありがとうございます」

「ああ、それから、寺の境内には、白拍子の妓王と妓王の妹、それから彼女等の母親の墓があるそうやから、明日の朝に、おまいりしてから出発としましょうかねえ」

 「はい、分かりましたわ」

この辺りは、白井という苗字の大規模農家が多く集まっていた。

商売は玉緒、宿の手配は要と役割を決めていたから、宿の様子や住職の人となりを聞くのも彼の役割。

今日、白井家の前の広場をかりて舞った「ゑびすかき」は大評判で、何と7~80人にものぼる近所の人々で黒山となり、お札やお守りが普段の倍は飛ぶように売れた。

更には、高価な金色の銅像二対も白井の大旦那や、大旦那の友人達が買ってくれたこともあり、合計で5組も販売できた。こうして彼等は聞いていた通りの親切なこの尼寺に、大威張りで宿泊することができたのである。

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 「玉緒はん、明日からはなあ、ここの先の朝鮮人街道を通って、仁保から十王へと歩くつもりだよ」

「ああそれから、玉緒はんの寝間は、住職の尼さんの隣で別の場所を用意してもらっているから、どうぞ、そちらの方へ。明日があるから俺はもう寝るぜ。じゃあおやすみ」

 玉緒は、子をはらんでおり、要が配慮したのだ。

野洲から仁保と江頭、安土から彦根、そして三河から江戸まで続くこの街道は、室町時代から始まり江戸時代に最盛期となった朝鮮通信使達の大行列が通った道ということから、現在でも朝鮮人街道と、この辺りの地元では呼ばれている。




 3.玉緒の知恵



 翌朝、妓王寺から朝鮮人街道へと入り、日野川に掛かっている仁保橋を通り、白井のお婆ばから教えてもらっていた、梅村弥三右衛門家へと急ぐ。

その梅村家は十王町の角にある旧家で、聞いていた通りの、門構えが二間もある誠に見事な大きな造りである。 物知りな白井のお婆ばから聞いていた話はこうだ。

 「その昔、第55代文徳の王子である推喬親王が、この辺りの道を通って京に向かう途中で急に腹痛を起こされてな、たまたま近くにあった地蔵堂の社で体を休めていたそうな」

「それを見た村人達がなー、ビックリして、ちょうど親王が鹿の皮で作った袋に携帯されていた郁子(むべ)実を服用されるようにお勧めしたところ、たちどころに快癒されて、急いでその足で京に向かわれ難なきを得られたというそうやで」

 「この故事からなあ、かの地は、王の命を拾いたるという意で、この里を”拾王町”というようになったらしいわ。そして、今では、”十王町”と書くようになったんやて」

「また、その地蔵尊は郁子(むべ)の地蔵といわれていてなあ、その梅村弥三右衛門さんの庭に今でも鎮座しておられますのや。この地蔵は霊験新たにして、場所を移すと災いがおこるということから、今でも梅村家にそのままにして置かれているとのことや」

 「十王町に、梅村姓が多いのは、この郁子(むべ)の由来から、郁子村(むべむら)と言われていたが、なまって梅村(うめむら)になったと伝えられているのや、はいな」

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なかなかに面白い、由緒正しい歴史のある村のようだ。

要と玉緒のモチベーションも普段よりは高まる。そして、あろうことか梅村家では、「ゑびすかき」キャラバンで過去最大の売り上げを記録して、今日の仕事を終える。

 今夜は、梅村の民代お婆ばから教えてもらった、梅村家の三軒右隣にある、西覚寺に宿泊して、明日は、江頭にある庄屋の井狩家に向かうこととなる。

 さて、彼らの販売戦略は、次のような洞察から来ていたのである。これらは、全て、賢い玉緒の知恵だったというではないか。

「要さん、私たちのチームは、これからは旧家をターゲットにするのよ。なぜなら、旧家は玄関前の土地が広いじゃない。だから『えびすかき』演舞の場所の心配もないでしょ。それから、人の出入りも多いじゃない。また、旧家の人たちは、一様に鷹揚で親切な人が多いわよ」

「なるほどねー、その通りだ」

「更に、大旦那さん達は、縁起を大切にしているから金運グッズが大好きで、すぐに飛びつくわよ。何よりもお金があるし。村の衆も、これを見ていて、大旦那さんにあやかりたいと思い、見習ってグッズを購入するという寸法よ」

 「それから、この辺りの村ではね、間口が一間ある仏間が普通だって。だから仏壇でも一番高いのが売れるそうよ。お金持ちが多いのよね」

 「よくぞまあ、そこまで調べたもんだね。立派なもんだわ」

「それからね、宿泊のお寺の事情にはね、その家のお婆ばに聞くのよ。なぜならお婆ばは寺事情に詳しいし、住職の人となりも良く知っているでしょ。次の販売先の旧家の紹介にもね、お婆ばの情報力と知恵を借りるのよ」

「お婆ばは、旧家同士の繋がりを殊に多く持っているし、また相手の家の事情にも詳しいからね、紹介先にも間違いが少ないということよ。そうでしょ」

そして、これらを実行するのは、男の要の役割だった。玉緒が考え、要が実行するという訳だ。こうして、この二人は、次々とチェーンを繋いでいったのである。二人の四柱推命による相性も最良ということもあり、こうして彼らはこのパターンで、「ゑびすかき」ビジネスのキャラバンで大成功したのだった。
 
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今回の一回の朝鮮人街道沿いキャラバンで、現在の金に換算して、ななんと200万円もの売り上げになっていたというではないか。




 4.親方の真の姿



要の親方は、キャラバン隊の全員に対して、彼等が稼いできた売上金の、それぞれ3割ずつを、暖簾代及び「ゑびすかき」道具一式のリース代として徴収していた。

要のチームに、自分の娘が居るからといっても容赦はしない。 加えて、西宮神社から親方が仕入れた開運グッズ代も神社に支払わなくてはならないから、三割を引いた残りの額の半分を、更に親方は召し上げた。

これが、彼等の決まりとなっていた。しかし、親方は、集めた金を独り占めにすることはなかったのである。

 「ゑびすかき」人形を、今の人形の背丈の倍ぐらいはある、1m20cmもある大きな操り人形へと改造して、更に表情や動きも複雑に操作できるようにした、高度な人形へと操り仕組みに改良を加えたり、また首と右手の主遣、左手の左遣、そして脚だけ担当の足遣いという三人遣い専用の傀儡子達も養成して、自分の金で彼等を訓練していたのである。

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 更に芝居のストーリーにメリハリをつけた脚本や、義太夫節と三味線に連携した演出も用意して、今でいう人形浄瑠璃の原形をあれやこれやと考案することに、稼いだ金を全部使っていた、というのだ。

 親方こと正井与兵衛には夢があった。摂津・西宮の東の、難波のど真ん中で、自分専用の人形芝居の舞台を持つことである。

そこで、ふつふつと頭に浮かぶ人情物のストーリーを、人形浄瑠璃で演じて見せ、人々を楽しませたいという夢だ。

 そして彼は、あろうことか、私財を投げうって大阪は高津橋南詰(現国立文楽劇場の近く)の浜側に人形浄瑠璃の稽古場を開場し、自分の名前も「初世・植村文楽軒」と改める。

その後明治5年には、堀江に「文楽座」と銘を打った人形浄瑠璃専用の本格的な芝居小屋を立てて、名前も「植村文楽翁」と称した。

与兵衛の狙い通り、文楽座は一世を風靡して世の喝采を浴び、初世・植村文楽軒の名は知らないものがいない程だったという。

この人こそ、人形浄瑠璃・文楽座の始祖にして、文楽の創業者である。即ち現在の文楽の基礎を築いた、その人だったのだ。

 しかし、与兵衛と妻テルとの間には初枝、玉緒(要の妻)という名の女の子2人がいるだけで、男子には恵まれなかった。

よって、仕方なく二代目をテルの甥から選び、本名を正井貞蔵、号を植村浄楽と称させた。
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二代目を継いだ浄楽は、堀江にあった芝居小屋を博労町の難波神社境内に転移させ、ここを「稲荷の芝居」と呼ばせていた。

 次の三世こそ、玉緒と要との間に生まれた男の子を与兵衛の養子として、正井大蔵と名づけた。彼は、後に二代目「文楽翁」を名乗る名人となる。

大蔵は、当時芝居小屋での人形浄瑠璃が禁止されていたこともあり、各地を転々として細々と興行を続けていたが、その後に人形浄瑠璃が解禁されたので、博労町の難波神社境内に再び戻り、本格的な文楽の興行を復活させたというのである。

淡路の人形浄瑠璃から文楽はこうして発展し、今日にまで伝えられる。そして、明治42 年の植村六代目のとき、文楽の興行権は植村家から松竹に移った。


また、昭和30年には重要無形文化財に総合指定され、加えて、昭和38年には松竹の手を離れ文楽協会の手で運営されることになる。

更に、昭和59年4月には、国立文楽劇場が開場となり、その芸術的に洗練された形式や内容の人形浄瑠璃「文楽」は、ここに世界的なものとして認められるに至ったのである。

つまり、大蔵こそが、あの野洲の「妓王寺」で玉緒の腹に入っていた、要と玉緒の子、その人だったというのだ。

目出度し、目出度し。ああ、目出度いなあ、目出度いなあ。

 <キンカラコンコン、トントントコトン> 

<キンカラコンコン、トントントコトン> 




エピローグ

 

電車が止まる衝動と、「キンカラコンコン」という音とJRの社内放送で、私は寝覚める。

何ということか、私は、知らぬ間に寝込んでしまい、夢を見ていたようだ。

それにしても、なかなかに縁起のよい面白い夢だった、「まさしく目出度い初夢ではないか。新春のお祝いに『えびすまわし』が私の為に、門付けして呉れたようなものだ」と嬉しくなる。

 JR大阪駅を降りてから地下街に入る。阪神電車の特急に乗り換えてから、15分ほどですぐに「西宮」に着き下車する。

駅の右手前方に、多くの人が歩いていたから、人波の流れに任せて歩みを続ける。 裏から左右から、段々と人々が増えてきて、前の人を追い越して進むのも難しくなる。
道が混んできた先の、歩道の両脇には、出店が並んでいる狭い通路がある。焼き鳥、烏賊焼き、金魚すくい、ベビーカステラ、鳥のから揚げ、焼きそば、鯛焼き、コーヒー、何でも揃っている。

 匂いだけでも美味い。先ほどの夢とこの匂いとで、今と昔が交錯し、頭が混乱する。

そして赤門から神社境内に入り、1月10日の「本えびすの日」に例の福男がダッシュ競走をする石畳を歩く。

すると、入る人と出る人とがぶつかり合い、益々大変な混雑となる。右手のわき道には、若い女が扱う猿回しは出ていたが、「ゑびすかき」は舞っていない。

どこにも「ゑびすかき」はいない。何処もかしこも混雑しており、もう取材どころではない。

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人をかきわけ急いで本殿の前に着いて、型通りに初詣の拝礼を済ませる。せめてもの記念にと、恵比寿・大黒がセットになっている紙のお札を購入してから、私は早々に引き上げた。 




 
                    <終わり> 




(この短編小説は、私「雅号:dengakudan」の妄想の産物なので、事実と相違するところがあるやも知れませんが、ご容赦ください。尚、下のYoutube2本は当時の「ゑびすまわし」の様子を良く再現していますので、参考にしてください)

西宮神社の末寺である、百太夫(ひゃくだゆう)神社のお祭りの際に、西宮中央商店街で「阿波木偶箱廻しを復活する会」による門付がありました。その
Youtube(1)Youtube(2)の動画です。

文楽が、植村文楽軒の聖地・御霊神社で再興に挑むという最新記事
(2013.2.2朝日新聞夕刊)

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            Written by Dengakudan
                   ('13.01.26.) 

                                   この小説は、ここのWeb文集のために書き
                                    下ろしたものです。その後、2013年10月に
                                             KDLから電子書籍化しました。




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